麻とヴェルヴェット
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急に寒くなったせいか、お腹を壊して休憩していました。
そろそろ書く仕事再開。 さて、シェアが進むと起こることがありますよ。 それは、所有するという価値の崩壊です。 正確に言うと、所有することの意味の喪失です。 つまり、シェアしてしまえばいいのだから、 所有している必要はなくなり、 所有することに高い価値を置く必要がなくなります。 すると、持っているとか、持っていないとか、どうでもよくなります。 自分がどうでもよくなるだけではなく、 他人の所有についてもどうでもよくなります。 メルセデスに乗っていても、シェアしたメルセデスかもしれない。 乗りたいなら、借りたり、シェアしたりすればいい。 すると、持っているから威張っていた人がいたとしても、 全然意味をなさなくなります。 持っている本人はそう思っていても、まわりはもうそうは見ません。 あと今起こっていることは、記号の共有化の解体です。 あれはいついつのもので幾らという情報をのせた記号は、 それを知るものしか意味をなさないのですが、 年齢が下になるにつれて、 その情報を知りません。 ネットは自分で取捨選択して情報にアクセスするので、 はじめからいこうと思わなければ届かない。 年齢が下であるほど、テレビなんかみないので、 知らない間に知っている、ということもない。 テレビの有名人なんて、テレビを見なければ全くわからない。 (今の私の状態) 同様に、それがどこのブランドでいくらかだなどいう情報の共有も、 これからは難しくなります。 みんなが同じ雑誌を買うわけじゃない。 みんながテレビを見るわけじゃない。 所有するという価値の崩壊。 そして、記号の意味の喪失が進みます。 すると残るのは、 自分にとって価値があるものとは何なのか、 という問題です。 それはひとりひとりそれぞれが考えることになります。 Comments are closed.
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AuthorNaoko Kobayashi Archives
September 2023
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